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@Django37564@fedibird.com

Post #4459795

2026-08-06 01:05 UTC

「一九四五年三月九日深夜から一〇日にかけて、城東地域(江戸城から見て東)を中心に、米軍のB-29大編隊による東京大空襲が行われたことは周知の事実である。  一週間ほどを経た三月十八日の朝、堀田は、深川にいた知人の生死を確かめに、隅田川にかかる永代橋を歩いて渡った。警官や憲兵が多いことが気になっていたが、しばらくしてそのあたりに戻ると、当時としては異例なことに、焼け跡には全く似つかわしくない外車が何台も並び、さらに驚くべき光景が現れた。  天皇が焼け跡の「視察」に訪れていたのである。そこには焼け跡の整理をしていた空襲被害者たちがいた。堀田はこう書いている。「これらの人々は本当に土下座をしてら涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました。まことに申訳ない次第でございます。生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ」。  大日本帝国において、空襲で焼け出されるのは天皇にお詫びをしなければならない、いわば恥か汚点であり、大元帥(軍の最高位)の天皇は被害を受けた人に責められることなどなく、その者たちを「なぐさめる」立場だったのである。」 第三章 侵略認識の射程 堀田善衛『時間』『夜の森』の視点 より

Replies (1)

  • @Django37564@fedibird.com 2026-08-06 01:14

    「戦争という国家行為を考える際に、為政者の判断や責任を問う必要性がある。戦後、その当たり前のことがなされないまま、戦時中(さらには戦前)から連続する政治的な主体性の欠落がある、と言えよう。ただしこの焼け跡のエピソードは、戦後に時間の経過とともに薄れてゆく“臣民としての天皇への責任意識”がはっきりと見えるために強烈な印象を今日の読者に与える。自分たちは政治的主体でないので意思決定にはまったく預からず、しかし為政者の決定には全力で従い、その結果責任まで引き受けるという倒錯的状況がここには見られる。今日こうした臣民意識は薄れているだろうが、為政者の政治的決定に異議申し立てをし、あくまでも政治的主体たろうとする人々に対してバッシングや冷笑を投げかける形で、いびつさを増しながら変容して残っていると言えるかもしれない。  政治的な責任意識が欠落していると、強烈な主体的意識をもって抗日戦争を戦った中国の人々のことを理解できないのはある意味で必然なのかもしれない。」 第三章 侵略認識の射程 より

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